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4.25 NOAH 武道館大会

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プロレスとは肉体言語である。肉体から発せられる強力なメッセージが見るものを虜にする。そこにはアングルも仕掛けもいらない。その昔、ローマ帝国のコロッセオで行われた男同士の決闘がプロレスの原点なのだ。

昔からプロレスには八百長という言葉が絡みつく。この八百長という言葉が何を言っているのか。もしも最初から勝敗が決まっているからプロレスは八百長なのだというのなら、その論理展開からすればPRIDEだって十二分に八百長の試合がある。もっと言えば国技である相撲にだって八百長試合がある。

つまりプロレスがツマラナイと感じるならばそれは八百長だからではなく、ただ単に技術がない、もしくは気持ちが伝わらない試合をしているからに過ぎない。逆に言えば観客にそういうものを伝えきれない技量の無いレスラーが八百長という言葉に逃げているに過ぎないのだ。プロレスは基本的に相手の技を受け切って成立する。ここが総合格闘技との最大の差異である。総合格闘技の場合、一撃必殺。正に殺人行為に近い感覚で試合を行う。正に決闘である。しかしプロレスは違う。相手の技を知り、動きを頭に入れておかなければ、良い試合にはならない。そこに必要とされるのは豊かなイマジネーションと俊敏なアドリブ能力だ。これらのことをプロレス能力、もしくはプロレスセンスという言葉に置き換えてもいいだろう

ある意味殺し合いは「覚悟」さえ持てれば誰にでも出来る。しかしプロレスは誰にも出来ない。技量とセンスが試される、極めてクリエイティヴィティの高い技術職、専門職であるからだ。よく格闘技選手がプロレス的なムーブを見せる事があるが、それはあくまで真似事なのであり、本物のそれとは比べるべくも無い。故にセンスの無い想像力のかけるレスラー同士の試合が如何に貧しいものか。確かに今のプロレス団体の中には、プロレスと呼ぶには遠く及ばない見るに耐えないシロモノが多いのも事実だ。そうした試合を見た人に「プロレスは八百長だ」と言われてしまうのも強ち頷けないくもないのだ。

今、プロレス業界は疲弊している。最大メジャーであった新日の細胞分裂で基盤が弱体化した上に、各種条件が重なりマスメディアからドンドン隔離されかけている。アメリカで絶対的な力を誇示するプロレス団体WWEの様にスポンサーがつきビッグビジネスとして全く機能していない。アメリカではWWEが興行収入依存からTVでの興行収入主体になったのもメディアとスポーツの関係を推し量るに極めて暗示的な展開でもあるが、今のK-1やPRIDEが正にそういう関係をメディアと作りかけている。メディアと団体の『共犯関係』が侵食している現実が目の前にある。

しかし日本の場合、PPVシステムが未だ脆弱で紛いなりにも地上波の権益がまだ衰えていない状況下では、WWEの様にプロレスの枠を超えて連続ドラマ風味にアングルを展開するのは不可能であるし、やるべき術もない。では総合格闘技に「押されている」とされているプロレスが如何に世間に訴えていくべきなのか。そこで登場してきたのが「ハッスル」である。

プライムゴ-ルデンの時間帯に民放キー局に放送される事、これを世間に届かせると仮定して興行を打っているのが、PRIDEの主催会社であるDSEが仕掛けている「ハッスル」シリーズなるプロレス興行の狙いだ。WWE的な趣向性を持ちつつ、サブカルチャーテイストを塗した色あいで全体を装飾。

しかしこのやり方が世間に届くかどうかは、結局はフジテレビの営業サイドがウンと頷けば、いとも簡単にゴールデン・プライム帯に放送される事になるのが現実なのである。つまり『世間に届く』という事は、テレビ局、もしくは広告代理店が気に入ってくれる事、それのみが大事なのである。メディアサイドが利益を生む構図を提示できれば、内容の問題でなくシステムの問題として全ての物事が運んでいくのだ。こうしたややうがった見方がある程度の説得力を持つのは、Jリーグの初期段階における成功、正にK-1やPRIDEの成功の図式を思い出せば明白である。

しかし、初期のJリーグのバブルは弾けた。それは観客に継続的に訴求すべき技量が選手にも機構にもまだ伴っていなかったからである。Jリーグの存在は確かに世間に届いた。しかし届き終えた瞬間にそのバブルは弾けた。そこからワールドカップを経てJリーグが掲げる百年構想に基づく地域密着を徹底して周知させていったのは、必然の流れであった。アルビレックス新潟の成功を見るまでも無く、Jリーグが再浮上してきたのは、機構側がただ単に『世間に届かせる事』が最終目的でも最優先でもあったからではなく、掲げるべき理念があったからである。

そこで「新しいプロレス」として謳いあげている「ハッスル」シリーズはどうなのか。先に開催されたハッスル1と2のリング上には、残念ながらまだ誇れる技術は無く、気持ちも無く、理念も見かけなかった。

PRIDEのリングには、猪木VSアリや第1次UWFを大元にした異種格闘技の系譜がありその原泉には象徴として前田日明というカリスマが存在していた。K-1のリングには、空手復興という理念とキックボクシングの復活というテーマがあり、石井館長という日本が生んだ稀代のプロモーターとそれを体現する人物としてアンディ・フグという素晴らしいファイターがいた。それらの基礎が合ってこその今の隆盛なのである。

しかしハッスルのリングにそういう系譜なり理念なりを探すのだが、未だ見えてこない。この興行シリーズが本当にプロレスルネッサンスに繋がるのかどうか、未だに分からない。いや、このままでは絶対に繋がらない予感が漂っているのは否定できない。

4/25、さいたまスーパーアリーナでPRIDEヘビー級GPが行われた同日に日本武道館ではプロレス団体であるノアの大会があった。PRIDEと違いTVの放映時間は同日だったとは言え深夜である。PRIDEは遅れたとは言え、ゴールデンプライム帯で放送された。『世間に届く』という意味では完敗であったノアの大会のリングには、誇れる技量と研ぎ澄まされたセンスが満ち溢れていた。PRIDEが見せる、純粋な勝負論と対極をなすNOAHの闘い。どちらも気高く上質なエンターテイメントに違いなく、そこを同列の比較対象として扱うのは間違であると思う。

NOAH武道館のメイン小橋高山戦は、本来殺し合いの筈である総合格闘技では最近ナカナカ感じる事の無い、死の香りを漂わせる闘いが繰り広げられた。1年前、対三沢戦では、小橋は場外の花道からタイガースープレックスという大技で投げ捨てられた事がある。
その時のテレビの実況アナウンサーは「死んでしまう!」と絶叫した。この技を素人がやったら、技量の無いモノがやったら、アナウンサーの言うとおり死んでしまうだろう。プロレスと総合格闘技の競技的な最大の違いは、技をとめるその最終判断をレフリーでなく、選手自身が行っているところにある。その加減は全て選手に委ねられている、故に技量が必要なのである。

そうした感覚を八百長と呼ぶのならそれで結構。私は究極の技量を持つ男たちが行う『闘い』であるプロレスを貶める気にはならない。そして最高の技量に伴う最高の気持ちの高ぶりを感じさせてくれる人間である小橋というレスラーは、吸引力を持った太陽の存在としてリングに立ち光を放ち、それに対峙する高山というレスラーは肉体全体からその凄みを放つ。この二人がぶつかり合ったメインの試合は間違いなく今年のベストバウトになるであろう。

現在のプロレスが斜陽であると考え、それを興すとするならば、その手段として「ハッスル」的な手法で世間に届かせる事が大事なのか、それともNOAH的な手法として闘いの技量と熱情を研ぎ澄ます事が大事なのか、その正確な答えはなかなか見つからないが、立錐の余地のなき大観衆に包まれた日本武道館の熱気は、ある一つの答えを指し示していたのは間違いない。プロレスの底力をマザマザと見せ付けられた、武道館であった。

  by mf0812 | 2004-05-02 04:50 | プロレス格闘技

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